歴史6 大久保一族(三河物語)

サークル「十三妹」は、コミックマーケット90で
「日曜日 西地区"c"53a」に配置されました!

※現在、週前半(月~水)で趣味のこと。
 週後半(金~日)で制作のことを書いております。

というわけで、今ぎりぎりの時間に書いております。


真田丸景気と、
みなさんが知ってるところを書いておこうかと思いまして、
徳川家の辺りをしばらく連作で。
(それ終わった頃、ちょうどコミケでしばらく休みかな?)

徳川家康の軍事的に支えた功臣は、
酒井忠次か、本多忠勝が有名だと思いますが、

実質的に、徳川のナンバー2だったのは、
大久保忠世と中心とした大久保一族でした。


今川から独立後の家康の最初の困難は、
三河一向一揆でした。

当時の徳川家は、西三河7氏族の筆頭という位置で、
戸田氏以外が従って、これから東側へ侵攻という時期に、
後に譜代大名となる家臣たちが離反しました。

(その中には、本多正信もいて、一揆後も一向宗側に
逃亡することになりますが、
それが逆に三河のしがらみから外れることになったのと、
一向宗の衆議制を勉強する機会になったのかもしれません)

その中、大久保一族は全部家康側についたため、
徳川での影響力が強かったかに思えます。


それは天正壬午の乱の頃には、(織田信長死後の甲信越の争乱)
家康本軍とは別に軍を動かすようになったいました。

その1つが第1次上田合戦です。
(徳川が真田の上田城を攻めて敗北した戦い)

総大将 鳥居元忠(家康の直臣、総大将)
    大久保忠世(信州の重要拠点 小諸城常駐)
    平岩親吉(甲斐を掌握)

3人とも、甲信に関して重要な拠点を任されていて、
それぞれ適切な人事です。

ただ、この後の小田原の役から、少し事情が変わってきます。

家康の関東移封の際に、大久保一族が与えられたのは、
小田原一帯でした。(秀吉の指示もあり)

後北条氏が、そこから関東を平定したことを考えると、
すごく厚遇されたように思えますが、

小田原の役に関する関東征伐のほとんどは戦いがなく、
小田原周辺だけが荒廃していました。

江戸に行った家康も、今とは考えつかないほど、
荒廃した武蔵野に投げ出されているので、お互い様ではあるのですが。


そして、忠世の嫡子、忠隣の代に関ヶ原の戦いが起きます。

忠隣は、秀忠が率いる中山道軍の主力で、
家康の本軍の方が兵数がありますが、外様を含めた軍なので、
徳川軍の主力部隊はこちらと言えます。

それで、また真田昌幸の上田城が立ちはだかります。
第2次上田合戦

非戦派の忠隣と、主戦派の本多正信で話が分れます。
(この辺は、ドラマでどちらが主人公に近いかで、
全く印象が違いますが、40年軍事に身を置いた
大久保忠隣が選択した非戦が正しかったように思います)

この辺は、真田丸で楽しんでいただいて。


組織が安定し始めた際に、軍事の重鎮が除かれるのは、
どこでも起きますが、この後の大久保氏の運命は暗転します。

上野高崎藩13万石(群馬)に移封を打診される。(断る)

忠隣、老中に就任するも、戦国時代のように独断的に振る舞い、
他の老中から非難される。(秀忠は、擁護したよう)

婚姻届の不備、キリシタン入信の嫌疑などから、改易。

配流地にて忠隣死亡。
大久保氏の大名返り咲きは、50年後、孫の代になってから。

他関連
 大久保長安の贈賄で嫌疑(同姓であるが、一族ではない)
 大久保氏と近かった安房里見氏も改易(私の故郷)


忠隣は、死ぬまで武人であったのだと思います。
さて、

とこういったことを忠隣の少し下の年齢である
忠世の弟、大久保忠教(大久保彦左衛門の名で有名)が、
三河物語という本を江戸初期に書いております。

排斥された大久保氏の書いた本なので、
徳川を痛烈批判している部分もあるのですが、
統治機構から外れた田舎の戦国史として面白い本です。

批判を良しとしなかった豊臣と、
それを許容した徳川と、
どちらが国の容として、優れていたのか考えさせられます。


新三河物語 
※著者の宮城谷昌光さんは、三河の出身です。


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歴史5 曹叡

兵站の話が出たので、それに類似する話を三国志から。

といっても、最近三国志って、知ってる人少ないんですね。
私の上の世代は、吉川三国志。
私の世代は、横光三国志。
その後も、いろいろあるのですが、

蒼天航路が出た頃には、三国志以外の歴史の知名度も上がり、
歴史入門として三国志が選ばれなくなったのですかね。


さて、表題の曹叡です。

魏の2代皇帝。曹操の孫にあたる人物です。
彼の諡(死後に与えられる尊号)は、

明帝といい文字的にも高評価っぽく、
実際に評価の高い皇帝です。

主な業績をあげると。
・諸葛亮の北伐を退けた。
・父の曹丕が悪評で、対照的に好評だった。
・晩年、宮殿を造営などし、国を疲弊させた。
・後継者問題で、いろいろ揉めた。(父同様)

武将としての話なので、「諸葛亮の北伐を退けた」が、
話の中心になるのですが、三国志演義などでは、
曹真や司馬懿がその中心なので、あんまり印象がありません。

私も宮城谷昌光さんの三国志(全12巻)を読むまで、
あまり関心はありませんでした。

2つほど、事例を。


1.呉への南征

曹丕もほぼ同じ経路で、進軍しています。
曹丕は進路を途中で変更したりと、

目的地に着くまでに敵が備えをしてしまったり、
途中で寄った場所も、皇帝を迎える準備をしたりと、
すごく非効率な戦争でした。

逆に曹叡は順当に進軍し、余計な消耗をしませんでした。
国という規模での戦いを考えると、

数万人の食糧を確保する難しさが大きくなり、
それを無為に消耗するのは、将としての愚になります。


2.諸葛亮の北伐

別の機会があれば書きますが、諸葛亮の北伐は
最初が最大の山場でした。俗に言う「街亭の戦い」です。

魏からすれば、諸葛亮が率いる蜀がどこを攻めて来るのかわからず、
西の涼州と魏が分断された時点で、
ようやく長安以西が目的だと判明しました。

しかし、魏の重要都市である長安が狙われる可能性もあり、
曹叡は自軍を長安に進める選択をとりました。

これで他の武将は、長安を防衛することを考えず、
蜀軍との戦いに専念できました。

そして、蜀の分断が完成する少し前に、分断点で守るのに
最も困難な拠点である「街亭」に、当時の魏で最強である
張郃の軍を派遣し、蜀将である馬謖を破ることに成功します。

敵の目論見を看破し、そこに最も強い軍をあてるのは、
国規模の軍の将の最も重要な資質です。


この戦いで蜀軍は、将来有望視されていた馬謖が斬首され、
以降、同じ地点まで進出することはできませんでした。

逆に魏軍は、参戦者である曹真や司馬懿が起用されました。
蜀軍を退けました。国力で優っている魏として、正しい戦い方です。



彼の戦いは、曹操や曹丕と違い、国と国との戦いであったため、
不必要な戦いはいりませんでした。

大軍に兵法なし

相手より大軍を率いている場合、弱いところを制圧していけば、
敵は軍を支えることができなくなり、自滅していく。

それは40年後の蜀滅亡の際、蜀の各将が各個撃破されていく
ことから、みてわかります。



歴史4 石田三成

近況
ちゃんと布団で寝てなくて、体イタイ!



とうとう真田丸が小田原の役(北条征伐)ということで、
今回は石田三成のお話です。

世界各地にある小国が大軍を退ける逆転劇というのは、
ゲリラ戦で、補給路を絶たれたり、
焦土戦術で、戦地で食料を確保できなかったり
して、起きています。

十字軍なんかは、今のパレスチナが戦場なわけですが、
ヴェネチアが海路で支援しなくなってからは、
勝てなくなりました。


日本では、遠征というのがほとんどないので、
兵站のスペシャリストという人物を
なかなか上げられないのですが、確実な2人がいます。

足利直義(室町初代将軍、尊氏の弟)
石田三成(本項にて)

両者ともに、前線の武将に嫌われていますが、
戦略を支えた武将からは好かれて、

その能力がゆえに、天下を差配することになり、
非業の死を遂げています。


で、今日は石田三成。

略歴
・近江にて、秀吉に見出される。
・備中高松城の戦いには参戦していた形跡がみられる。
・豊臣政権下で、奉行衆の筆頭になる。
・北条征伐で武蔵方面に進軍し、忍城以外を制圧する。
・文禄・慶長の役で兵站を担う。
・関ヶ原で敗死。

略歴をみただけで、評価が難しい方のがわかります。
では、簡単に評価をするために数字です。


三成が兵站を担ったとされる大きな戦。

兵站(へいたん)
 戦場で後方に位置して、前線部隊に軍需品・食料などを供給する役目・機関。
(Wikipedia 2016/6/7)

四国征伐(5万程度?)
九州征伐(10万程度?)
小田原の役(10万程度?)
文禄・慶長の役(10万程度×2)
(※ それぞれに関しては後述)

日本の歴史の中で、この規模の戦いの兵站を5回も担当した
人物はいないと思われます。

そして、この戦いの中、中央機構に兵站を担える官僚が育ち、
人ではなく、組織として担当することになるため、
評価されにくい能力だということも言えます。

すごく裏の話をすると、信長の爺さん信定辺りから、
こういった官僚を育てることを考え始め、
織田政権の早くから、農民足軽ではなく、
経済力により、軍事力を養うことを目的としていました。

最初に楽市楽座を行った六角氏が維持できず滅び、
そういった新しい経済政策に、
次々と挑戦した織豊政権が天下を取りました。

三成は、その半世紀に及ぶ機構の集大成だったのかもしれません。


最後に三成の逸話を。

三成と秀吉の出会いの話ですが、当時、近江で城主になった秀吉が、
鷹狩りの後、お寺で休憩しようとすると、お茶を勧められました。

最初は、温めのお茶。
次は、普通の熱さのお茶。
最後は、熱いお茶です。

秀吉にどうして、お茶の熱さを変えたと聞かれた
佐吉少年(三成の幼名)は、

1杯目は、動いてきた後で、すぐ飲みたいと思ったので、
温いお茶を出しました。

2杯目は、お茶を味わっていただきたく、普通に。

3杯目は、お茶の味を気に入られたと思いましたので、
熱くして味わっていただこうかと

この返答を秀吉は気に入り、佐吉を配下に取り立てました。
三成の誕生です。

この話は、「お茶の作法を説明しただけだ」と、
おっしゃる方がいるのですが、違う視点で見ていただきたく。


こういった作法・慣例といったものは、
子供に説明をする大人がどれくらいいたかということです。

今の日本でも、当たり前のことはあまり言わない。
言っていても、それを子供が理解することは難しい。

そして、秀吉の聞かれたことの意図を理解し、説明したこと。
まして、初対面であろう武家に、堂々と話す胆力です。

1.理解力
2.説得力
3.胆力

作法など、クソくらえの秀吉です。
清須で織田の重臣と渡りあってきた頃の自分と
同じ姿をみたのだろうと、推測しました。



補足説明

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歴史3 田予

3回目なので、そろそろ有名どころの三国志からと思いましたが、
書こうと思った「田予」があんまり有名ではなかった(笑)

書くにあたって、光栄さんの三国志の11ステータスを見ました。
オール70ー80ぐらい。

私の評価はこれより上ですが、
登場すらしなかったバージョンを考えると大躍進です。


田予という方の特殊性は、
曹操と劉備の両方に仕えたことがあり、
黄巾の乱から五丈原の20年後まで生きたことです。

同じような武将をピックしてみましょう。

徐庶
劉備の配下として登場するも、曹操陣営に入ると陰を潜める。

廖化
黄巾の乱~蜀滅亡まで現役であるが、大軍を率いることはなかった。

張郃
黄巾の乱~袁紹ー曹操と仕え、諸葛亮の北伐で戦死。
戦死した時点で、もっとも経験のある将軍とされていた。

というのを踏まえて。


田予

黄巾の乱~劉備ー公孫賛ー曹操と仕える。

・曹操時代(三国成立期)
曹彰(曹操の子)の北伐の実質的な指揮を執る。
南陽太守になり、(三国の勢力が入り乱れる地域
他国に同調する勢力を未然に鎮圧した。

曹丕政権下
故郷である北方に戻り、遊牧系異民族を分断させ、
巨大勢力を作らせず、倂州、幽州といった地域を安定させた。

中でも、反乱を起こした烏桓の長である骨進を、
百騎ばかりの兵で訪問し、問答無用で斬り、
武を重んじる騎馬民族に尊敬を得ました。

曹叡政権下
遼東の公孫淵が反乱(司馬懿の征討より前)の将となる。
呉が派遣した海からの援軍を、他将が予期せぬ位置で迎撃し、
不意を突かれた呉軍は全滅する。

しかし、殲滅を優先し、公孫淵への支援物資の略奪を
許さなかったことから、同格であった属将から
讒言され、曹叡の信任を得られなかった。

曹叡は明君でしたが、数少ない失策の1つと言われています。
(一部の名臣からは、張郃に匹敵する将として、田予が挙げられた)

司馬懿が魏を把握した頃、衛尉(高官位)に任命されましたが、
高齢であることで固辞し、慎ましい生活の中、
254年に死去しました。

254年は、司馬師が政権を把握し、魏皇帝は廃位され、
翌年、魏の臣下である母丘倹の乱が起き、司馬師に鎮圧されます。


田予という人物が知られていないのは、
三国志演義に1行しか登場しないためです。

しかし、前漢~(三国時代)~晋の間は、
北から来る騎馬民族との戦いが最も重要でした。

実際に晋の後、千年間(明が成立するまで)
中国の先進的な地域は騎馬民族の支配下に置かれます。
彼は半世紀に渡って、その地を安定させました。

騎馬民族との国境付近の出自である田予が、
騎兵との戦いに長けていたのは想像できますが、

南方にも転戦して、勝利を収めているところが、
彼の将としての優秀さを表しています。


それから、田予という方の優れているのは、
他者を讒言しないところです。

曹操に会った際に、かつての主君である
公孫賛や劉備を悪く言いませんでした。(劉備はこの時、曹操の敵)

それは彼を登用しなかった曹叡どころか、
曹叡に讒言した程喜という人物にもです。

讒言ではありませんが、曹彰に関しては、
北伐における田予の功績は、曹彰のものになってもです。

それはおそらく景初年間(曹叡の時代)において、
最も優れた将であった彼が持っていた優れた資質であり、

50年という現役の中で、
それを継続させたことなのだと思います。



2.馬服君 趙奢

2回目は、漫画辺りから、キングダムのちょっと前を。


中国の戦国時代の趙の国に、趙奢という名将がいました。

別名、馬服君。


彼より、彼の息子の方が有名かもしれません。

この時代の勝者となる秦の決定打とされる長平の戦いで、廉頗(れんば、キングダムにも登場)と交代して指揮し、趙軍を敗北させてしまった趙括です。


父を上回る軍才と称された趙括に対して、趙奢は、
括の兵法は口先だけもので、戦争とは生死のかかったものであるのに、無造作に論じている」
と評しています。


これは違った側面を見ることもできます(後述)が、趙奢が戦争を机上のものと考えていなかったことがわかるかと思います。



趙奢自身が指揮したものでは、「閼与の戦い」があります。


秦軍が侵攻してきた、閼与へ援軍に赴くことになった趙奢ですが、趙の首都近くに陣を敷いて、臆病風に吹かれて援軍にいかないという虚報を秦軍に流し、そこから迅速に動いて閼与に到着すると、秦軍に有利となる北山を占領し、一気に秦軍を撃破しました。


他に趙奢の戦い方として、3千の手勢で隘路を進んでくる秦軍を強襲して撤退させた。

(正確な趙奢軍を把握できていなかった秦軍は、大軍と勘違いして退却した)


服君という名のとおり、機動戦を得意としたのかもしれません。


ここで、長平の戦いに話を戻します。


長平の戦いは、秦軍3万を率いる白起が、趙軍40万の篭る長平を囲むという、少数が多数を囲んでいるという、よくわからない戦いです。


持久戦を選択した趙の将軍廉頗が王により更迭され、代わった括は出て戦うことを選択しました。

そして、白起に破れ討ち死にし、捕らえられた40万の長平は生き埋めにされるという、趙の命運を決定づけた戦いです。


これは単純に括の失策とされていますが、趙奢が徴税官から出世してきたことと、先の少数の兵で戦うことを常としたことと考えると、別の側面が出てきます。


趙兵の40万というのは、徴兵された非戦闘員も含まれています。

つまり、常時には生産活動をしていた民が、生産活動を止めて従軍しているのです。


廉頗は、勝つための兵力として、この大軍を要請しましたが、滞陣が長く続けば、趙はそれだけで国力を弱めてしまいます。

戦争が国力を弱めるということ、王からの要請、そして、10分の1以下の兵力の白起の挑発。


なにがどういうタイミングで、括の心を揺さぶったか知ることはできませんが、そういう側面もあったという話です。

廉頗はこの時、一線を退いていました。

趙は国として、この戦いになる前に、10万程度の兵力で、秦と互角に戦える将と兵を鍛えなければならなかったのだと思います。

趙奢は、秦の勃興期と時代が被り、領地が秦に近いこともあり、秦への対策に明け暮れた隠れた名将であったかと思います。



余談になりますが、時代を降って、後漢には、彼の子孫と言われている馬援が登場します。
前漢の時代、長江ぐらいまでであった中華の版図を、いっきょにベトナム付近まで拡げたのは、彼の晩年の功績です。
(光武帝の28将という有名な絵がありますが、馬援は描かれたとき、皇帝の外祖父となっていたので入っていません)

さらに三国時代の馬騰・馬超は、馬援の子孫と言われていますから、歴史に大きな足跡を残した一族ですね。
ちなみに、馬は馬服君から、取られた姓だと言われています。




プロフィール

十三妹 

Author:十三妹 
同人ゲーム制作サークル
「十三妹」活動日誌です。

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